第40回江刺甚句まつりが開幕2013/05/05

▲大盛況となった名物の子供甚句踊りパレード

岩手県奥州市江刺区に伝わる民謡「江刺甚句」をモチーフとした第?脂?江刺甚句まつり(同まつり実行委員会主催)は5月3~4日、同区市街地でにぎやかに開かれた。記念すべき節目のまつりとあって、主役の江刺42歳年祝連「咲和会(しょうわかい)」(紺野裕輝会長)、同25歳年祝連「平蘭舞(ひょうらんぶ)」(及川健会長)の両メンバーは、区内各地で力いっぱいに甚句踊りと創作演舞を披露。踊りパレードやはやし屋台巡行などで、まつりに花を添えた。
両年祝連の合同披露キャラバンが先陣を切って演舞を開始。えさし藤原の郷や高齢者施設など区内の27カ所を巡り、力強い踊りを披露した。?脂?記念の歴代の年祝連による甚句踊りパレードは、熟練の所作と迫力で観客を圧倒。同広場でのオリジナルステージで、会場の人びとを大いに

金ケ崎~水沢で子供騎馬武者行列2013/05/05

▲5年ぶりに金ケ崎町内で繰り広げられた子供騎馬武者行列

岩手県奥州市の陸中一宮・駒形神社の春の駒形祭「子供騎馬武者行列」は5月3日、同市水沢区と金ケ崎町の市街地で開かれた。ことしは、5年に一度の「奉遷記念特別大祭」。駒ケ岳山頂(金ケ崎町)の奥宮の御神霊が、同神社(水沢区)へ遷った様子を再現した。騎馬武者に扮した子どもたちの姿に、沿道の観衆は目を細めていた。
戦国武将の名を冠した子どもたちら43人が騎乗。時折、小雨模様となった同町の中心部では、5年ぶりの行列を楽しみにしていた人たちが沿道に繰り出し、「格好いいよ!」などの声援を送っていた。
(2013年5月4日付・胆江日日新聞)

絢爛豪華に日高火防祭2013/05/05

▲華やかなはやし屋台が一堂に集まった遥拝式

岩手県奥州市の風物詩として知られる「日高火防祭(ひだかひぶせまつり)」は4月29日、同市水沢区の中心市街地で繰り広げられた。同日は気温20度を上回る陽気となり、桜も満開となる絶好の祭り日和。絢爛豪華な「はやし屋台」が各所を練り歩き、まちに春を呼び込んだ。
江戸後期に水沢の街が大火に見舞われたことが起源と言われる火防祭。現在では各町組から出される豪華な屋台が有名だ。
同日午前、全9町組のはやし屋台が大手通りに終結し、遥拝式に臨んだ。鎮守の日高神社に向かって拝礼し、「揃い打ち」演奏を奉納。午後から街中を巡行し、屋台に搭乗する「お人形さん」と呼ばれる和装の子どもたちが、優雅な音曲を奏でながら沿道の見物客を魅了した。
(2013年4月30日付・胆江日日新聞)

 

1.柳之御所の発見

発端は88(昭和63)年の柳之御所遺跡の発見だった。6年間の一関遊水地事業・国道4号バイパス工事に伴う発掘調査で、広大な12世紀後半(藤原秀衡の統治時期)の遺構群と、膨大な量の遺物が検出されたのだ。
調査が進み、鎌倉幕府の史書『吾妻鏡(あづまかがみ)』に記された平泉の政庁「平泉館(ひらいずみのたち)」の可能性が高まると、地域住民を中心に遺跡保存を求める運動が始まった。
結果、建設省(現・国土交通省)は北上川治水や一関遊水地事業も考慮した上で、バイパスのルートを変更するという大英断を下した。その後97(平成9)年に国史跡指定。現在に至るまで発掘調査が続いている。
柳之御所遺跡の発見と保存整備の動き、平泉に遺されてきた文化財──文化庁を中心とする政府機関は、古代東北の中心であった平泉を世界遺産候補に、と強く考えるようになった。それは地元や県からの要請だけではなく、東北地方に世界遺産における「文化遺産がない」(自然遺産はすでに白神山地が指定されていた)などの諸要因が重なった結果だった。

2.暫定リストに登載

平泉は国の推薦を受けて01年4月、「世界遺産暫定リスト」にその名が登載された。遺産登録は国策に準ずるものだけに、失敗は許されない。同リスト登載は、必ず10年以内に登録条件を整備終了させる覚悟の表れとされる。言い換えれば、一般的にリスト登載後10年を経過した候補は、本推薦に至らない可能性が非常に大きいのだ。ちなみに専門家の間では、この理由から「鎌倉(92年登載)」「彦根城(同)」の世界遺産登録はないと見る意見が多い。
世界遺産が世に広まり登録物件が増加すると、その内容も高度になった。現在では1国のうちに同様の文化財の遺産登録は認められず、単体ではなく一つのテーマの下に複数の文化財を登録する傾向にある。
文化庁、県などの担当者は柳之御所遺跡、中尊寺、毛越寺など平泉中心の史跡、文化財を候補のメーンに決定。さらに03年、登録認定の傾向とより大きな価値のある遺産とするために、「平泉の基盤」に関する文化財など6カ所を候補に追加させ、遺産に幅を持たせる方針に変更した。

3.候補物件の強化

そこで選ばれたのが骨寺村荘園遺跡、白鳥舘遺跡と長者ケ原廃寺跡であった。骨寺は中尊寺を経済的に支えた荘園跡として、白鳥舘と長者ケ原は奥州藤原氏の基礎を造った安倍氏・清原氏の「前平泉文化」の史跡としての価値が認められた。
一連の候補地追加の背景には、世界の名だたる遺産と比較した場合の「インパクトの弱さ」があったとされる。また、世界遺産を通じての地域の連携強化も目的だったという。
登録の必須条件は、国史跡指定と遺跡周辺の環境条例による保護体制の整備。奥州市の2遺跡でも、国史跡指定のための調査、地権者への説明会などが急ピッチで進められた。
05年5月の文化審議会での国指定史跡を認める答申をへて、同7月の官報告示により国史跡指定が正式に決まった。それは担当者の思いだけでなく、地域住民の理解が結実したときだった。

4.世界標準を見よ

06年6月、一関市内のホテルを会場に「平泉の文化遺産の顕著な普遍的価値と保存管理に関する国際専門家会議」(文化庁、岩手県、奥州市、一関市、平泉町主催)が行われた。遺産候補物件を調査するユネスコの世界遺産諮問機関ICOMOS(イコモス、国際記念物遺跡会議)委員や海外研究者などを招き、「登録決定とするには何が必要か」という意見を聴く貴重な機会となった。主催者側は「推薦書作成やイコモス調査への最終調整に向けて大切なステップ」と位置づけていた。推薦書は07年初頭が提出期限であり、提出後の内容変更は許されない。加えて07年秋のイコモス調査前後に、海外関係者に具体的意見を聴くことは難しくなるからだった。
主な出席者は▽イコモスオランダ委員ロバート・デ・ヨング氏▽同韓国委員ファン・キーウォン氏▽同中国委員タン・ジーゲン氏▽同日本委員西村幸夫氏▽同稲葉信子氏──など専門家14人をはじめとする関係者60人だった。主な候補物件の視察、ミーティングなどが4日間にわたって実施された。平泉関係者は「登録のための世界標準を得よう」と必死だった。

 

5.浄土思想で逆転

それまで日本側(文化庁など平泉関係者)は、平泉を「東アジアの仏教都市遺跡」と位置づけようとしてきた。会議ではその根本部分に、海外専門家から難色が示された。世界レベルでいう都市の観念と大きく違うというのだ。方針の軸を大きく揺さぶられた。
そこに一つの光明が現れた「浄土思想」だ。「平泉の人々が日本化された浄土思想の中で創りあげてきたものが、寺であり、庭であり、居館であり、街である」という発想だ。「都市遺跡」に異論を唱えたヨング氏も、現在のイコモスでは「集落や景観、宗教といったジャンルの遺産が、特にアジアで不足している」との見解があると述べ、平泉の文化遺産が評価されやすい状況にあることを示唆していた。ファン氏も「宗教の霊地というのは(世界遺産登録)基準に含まれており、西洋の歴史的都市と異なる東アジアの(都市の)特徴。都市が精神性を持つ側面がある」と述べ、十分に評価に値するとした。これらの協議から、最終日に推薦書本文の最終調整案を取りまとめた。
国際会議から約1カ月後、国の文化審議会は「平泉の文化遺産」を「平泉──浄土思想に関連する文化的景観」として、政府推薦することに決めた。文化審議会決議が、文化庁長官による推薦の根拠となる。

6.推薦書提出

文化庁の推薦後の9月、国の世界遺産条約関係省庁連絡会議が開かれ、「平泉──浄土思想に関連する文化的景観」を「平泉──浄土思想を基調とする文化的景観」に改称し、国として正式に推薦することを決定。暫定推薦書をフランス・パリのユネスコ世界遺産センターに提出した。
「大きな前進」と安堵の表情を浮かべる人もいたが、実務担当者たちは「もう後には退けない。地域でより高く機運を醸成し、前に進むだけ」と表情を引き締めた。残るハードルは、07年2月を期限とする推薦書正本の提出と同年秋のイコモス現地調査の2つだけとなった。
推薦書正本作成は急ピッチで進められ、予定よりも1カ月早い12月半ばに提出された。正本は本文(英文)や写真、図表などをファイル6冊に分けており、これに映像資料(ビデオなど)が付けられている。
提出を早めたのは、諸外国からの推薦が多数だった場合、予定していた07年に審査(現地調査)が受けられなくなってしまう可能性があるからだ。各国数名ずつイコモス委員がいるとはいえ、審査実施には限りがあり、ユネスコ自体も登録抑制の流れにあるため警戒が必要だったのだ。

7.登録延期勧告

推薦書受理が無事に済み、国際会議などの指摘を基に、関係者や地域住民は審査に向けての準備へ取りかかった。条例などの整備やボランティア組織の結成などが進められた。準備も大詰めにかかる5月、ショッキングなニュースが入った。06年に審査を受けた島根県の候補「石見銀山とその文化的景観」が、イコモスから「登録延期」の審査結果勧告を受けたのだ。平泉関係者にとっても「寝耳に水」の出来事だった。
平泉にとっては試金石であっただけに、不安が広がった。06年の審査直後の会見で、「心配なし」「時流に合う」との言葉が関係者から出てきていたことから、平泉側も安心して見ていた。しかし、「イコモスの調査員の目は厳しい」という当たり前な現実を再認識させられた。「私たちの審査前にこうしたことが起きたのは、気の緩みを正す意味で良いこととらえよう。いい意味で喝が入った」と話す人もあり、その後、審査受け入れ準備に拍車がかかった。
(詳しくは、特集「延期勧告の教訓」を参照ください)

8.石見が逆転登録

6月、ニュージーランドで開かれたユネスコ世界委員会で、石見銀山が遺産登録された。勧告後、石見関係者が席上可否を示す各国代表委員などに「補足書」を送付し、その価値を理解してもらえるよう努力した結果だった。平泉にとって、「逆転登録」の方法を学んだときだった
平泉関係者は「勧告後に補足書を作らなくても済むよう、調査の時に万全を期すべき。やれることはすべてやろう」と石見銀山の結果に後押しされた。
「稲穂の金波が奇麗な秋の収穫期に」と9月末の調査を希望していたが、委員の都合で8月末の調査が決まった。委員はスリランカのジャガス・ウィーラシンハ氏だった。準仏教国であること、氏が考古や壁画修復などを専門としていることに「平泉の価値を分かってくれるのでは」と期待が高まった。

9.審査開始

関係者間には緊張が走っていた。抜き打ちのミーティングが開かれたという石見での現地調査が頭から離れない人もいた。が、ジャガス氏は終始穏やかで、視察中の質問もほとんどが基本的なものであったという。「推薦書を(事前に)もらって感じていたいくつかの疑問が、補足説明書を読んでほとんど解消した」とのコメントも得られた。石見での教訓が生かされた瞬間だった。
ジャガス氏は平泉の価値がよく分かったとする一方、諸外国からきた一般人がその価値をすぐに分かるようにさせるガイダンス施設の必要も指摘したという。
専門家としての判断とは別に、個人的には平泉の歓迎態勢に満足だったようで、2日目の地元料理での宴席では、楽しそうに地元住民と話す姿が見られたという。
最終日翌日の予備日に予定されていた補足ミーティング、追加視察はキャンセルとなった。ジャガス氏からは十分理解できたと申し入れがあったからだ。担当者の一人は「いい意味かどうかは分からないが、十分であったということでしょう。私たちも十分にやりました」と話した。
(詳しくは、特集「試される平泉」を参照ください)

 

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